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馬 題字
特別復刻版 1962年04月22日
第22回皐月賞
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馬柱 ◎日本中央競馬会の設立

 先日、静岡県の伊豆長岡で麻雀合宿。翌朝、ゴルフ組とは修善寺で別れ、ひとりバスで山を越えて小1時間。久しぶりに伊東の地を散策した。

 勝手知ったる街並み。まずは駅横の喫茶店「旅路」でビールを1本。伊東が生んだ多芸の才人・木下杢太郎の記念館でひと息ついた後、タクシーに乗り込んだ。行き先は、もちろん1つしかない。

 伊東競輪場(正式には伊東温泉競輪場)は、丘をくりぬいて作った外見がまるで山に囲まれた要塞のような1周333M。場内に入り、“山”の切れ目から場外に目を向けると、遠方に立ち上る湯煙が見える。学生時代から、この独特な風情のあるバンクが好きだった。

 伊東競輪といえば、無頼派・坂口安吾の“競輪事件”の舞台として有名だ。ヒロポンやアドルムの薬物中毒で、精神病院入院歴まである安吾。そのため奇行に走ることもしばしばあったが、1951年(昭和26年)、写真判定疑惑を端緒とする不正告発と闘争は、流行作家をまたもや被害妄想に駆り立てた。

馬  伊東に移住してからの安吾の競輪に対するイレ込み方は常軌を逸していたらしい。「もう競輪はやめたよ。あれをやっていると全国を歩きたくなるからね。他のことは何も出来なくなる」。戦前に取手や小田原に住んでいたり、伊東を去った後に桐生(終の棲家)に居を構えたり。本人が意識するわけもないが、安吾の行くところ、ギャンブル色が濃くなった地が多い。

 A級決勝の第8レースを見届けて引き上げた。行きも、伊東駅までの帰りも、タクシー運転手氏と車内談義。それにしても詳しい、というか“研究”のしすぎ。2人とも、選手名ではなくて車番で各レースを解説してしまうのだから。あの情熱と暗記力をもっと生産的なことに使えば…。お互い様か。安吾よろしく、堕ちるところまで堕ちるしかなさそうだ。

 坂口安吾が競輪に熱中した昭和20年代半ば。競馬は一時期、戦後に登場した新興の競輪に人気が押されぎみだった。原因のひとつは控除率。後発の競輪が25%だったのに対し、競馬は戦中のまま約34.5%という高さ。これは1950年(昭和25年)の競馬法改正によって解消されたが、当時の競馬界が抱えていた問題はそんな単純なことだけではなかった。

 1862年(文久2年)、在留外国人による“洋式競馬”が日本の近代競馬の幕開けとされる。横浜レース・クラブ時代、15競馬倶楽部時代、馬券黙許、馬券発売禁止、補助金競馬、旧競馬法制定、馬券復活、11競馬倶楽部時代、日本競馬会設立、馬券税法制定、能力検定競走…。この間、世は明治、大正、昭和と進んで、第2次世界大戦敗戦国となった日本はGHQ(連合国軍総司令部)の統治下となっていた。

 当然、競馬も影響を受ける。数少ないリクリエーションとして戦後復活、連勝式投票(当初は4枠連単)を採用してファンに喜ばれたのもつかの間、GHQの反トラスト・カルテル課は、かねてからの主張通り、私的独占禁止の見地により日本競馬会など競馬48団体に閉鎖命令を下した(1948年・昭和23年6月14日)。競馬消滅の危機。予期されていたこととはいえ、対策を立てねばならない。政府・農林省(当時)の尽力によって、閉鎖指定期日(同年7月20日)までに何とか新競馬法施行(同年7月19日)にこぎつけた。

 その結果、日本競馬会が行なっていた競馬は国が行い、中央馬事会が主催していた地方競馬は都道府県と指定都市によって施行されることになった。国営と公営の二本立て。地方競馬の“公営競馬”としての構造は、現在も変わっていない。

 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効。GHQの占領は終わり、日本の主権が回復した。戦後7年。この頃になると、国営競馬は民営化すべしという議論が活発になっていた。国が直接競馬の施行にかかわる例は世界でも数少ない。国自体が賭博興行を行うことが適当ではなく、人事・予算に弾力性を欠き、監督・被監督の関係も不明瞭。加えて、当時は公務員の削減が課題になっていた。

 こうした機運は、公共性の強い特殊法人の設立を促した。1954年(昭和29年)7月1日、日本中央競馬会法が公布。同年9月16日施行された。

 初代理事長には、旧競馬法制定(馬券復活)に尽力した安田伊左衛門・元日本競馬会理事長が任命された。翌年就任した第2代は、施設改善のために必要な特例法の立法化を推進し、プロ野球のオールスターゲームにヒントを得て創設した“中山グランプリ”の提唱者である有馬頼寧理事長。現在、この2人の名を冠したGIレースがあることは、競馬ファンなら誰でも知っているだろう。

馬 ◎初代・年度代表馬

 ハクリヨウは50年5月6日、母・第四バツカナムビユーチーの預託先である青森・盛田牧場で生まれた。生産者は浦河のヤシマ牧場。父・プリメロ(1931年・昭和6年〜1955年・昭和30年)は小岩井農場所有の輸入種牡馬でリーディング上位常連。1949年(昭和24年)に小岩井農場がサラブレッドを手放した後も、東北牧場に移って好成績を残した。ハクリヨウは、そんなプリメロの晩年の産駒である。血統名・ヤシマビユーテイー。その後、西博オーナーの所有となり、ハクリヨウと名づけられて東京の尾形藤吉厩舎に預けられた。

 父はいうまでもなく、母も良血。自身6勝を挙げた活躍馬で、ハクリヨウの兄姉にシラハタ(福島記念馬)、カネユキ(15勝、オークス2着馬)、ニユーモアナ(12勝、天皇賞2着馬)。雄大な馬格を誇ったハクリヨウに、厩舎関係者の期待が集まった。

 しかし、大型で裂蹄に苦しんだハクリヨウは仕上がるのに時間がかかった。52年11月、3歳秋のデビュー戦は7頭立ての3着。そして、翌1953年(昭和28年)3月まで休養に入ってしまう。春のクラシックを狙うには、このローテーションでは厳しい。実際、復帰後1カ月で3勝をマークして一線級に躍り出たものの、皐月賞は2着、ダービーも3着。いずれもボストニアン(父・セフト)の軍門に下っている。ボストニアンは、ハクリヨウと同じヤシマ牧場の生産馬だった。

 大器は晩成を目指すしかなくなった。何としても、菊花賞だけは勝ちたい。秋に向けて、ハクリヨウはダービーの後、連闘でオープンを使って4勝目を挙げている。初重賞勝ちは10月のカブトヤマ記念。昨年廃止された福島の名物重賞は、この当時は父内国産馬限定戦ではなく、舞台は中山の芝2000Mだった。

 菊花賞(11月23日)は8頭立て。1番人気はセントライト以来、12年ぶり2頭目の三冠制覇を目指すボストニアン。ハクリヨウは地力強化を認められながらも2番人気に甘んじたが、その充実度は人々の想像をはるかに上回っていた。早め先頭から直線では独り舞台。ボストニアンに3馬身1/2差をつけて、一矢報いることができた。

 日本中央競馬会設立の54年、ハクリヨウは無敗の快進撃を見せる。すなわち、3月14日の東京・特殊ハンデ戦を66キロで快勝。続く3月28日の東京盃(現・東京新聞杯)を制すると、勇躍西下。5月8日のオープンを勝って臨んだ天皇賞・春(5月16日)は、再びボストニアンを破って優勝した。圧巻の6馬身差。現役最強馬の称号はハクリヨウに移り、同時に古馬最高の栄誉を手に入れた。ここから5カ月で休んで秋は毎日王冠の1戦だけだったが、チエリオ以下を寄せつけなかった。

 国営競馬から中央競馬に移行した記念すべき年に、白井新平社長の啓衆社が“ホース・オブ・ザ・イヤー”の選定を企画した。専門紙・日刊紙の記者が集められ、満場一致で選ばれたのがハクリヨウだった。5戦5勝の天皇賞馬とはいえ、当時はダービーが頂点と考えられていた時代。それだけに、ハクリヨウの強さが際立っていたことが分かる。

 ハクリヨウが生まれ育って駆け抜けた期間は、我が日刊競馬にとっても創設期にあたる。競輪新聞の印刷請負業を前身とする弊社は、50年に大井競馬の予想紙を発行。競馬専門紙としてスタートを切り、53年春、国営競馬の専門紙も創刊した。

 小型廉価版から出発、シェア上位紙と同型同価版となった日刊競馬は、現在も親しまれている“データ”“調教メモ”を他社に先駆けて掲載。予想オッズも競馬専門紙として初めて載せている(1969年・昭和44年)。その後も、大型版化(現在と同じサイズ)、多ページ化(6ページ、8ページ)と時代に合わせた変化を遂げ、今日に至っている。

◎種牡馬としても成功

 55年に金盃(61キロ)、目黒記念(63キロ)を勝ち、69キロのオープン3着で連勝に終止符を打つと、ハクリヨウは競走生活から退いた。胆振の若草牧場で種牡馬生活に入り、日高の日本軽種馬振興会の管理下に転じた。1956年(昭和31年)から種付け開始。1961年(昭和36年)の61頭をピークに、1959年(昭和34年)から1971年(昭和46年)まで13年連続で40頭以上の種付けをこなした。質も高く、1964年(昭和39年)にはリーディング4位に食い込むなど、1960年代の内国産種牡馬としてトップクラスの活躍を見せた。

 主な産駒はシーザー(61年の宝塚記念馬)、ヤマノオー(皐月賞馬)、シーエース(1967年・昭和42年の桜花賞馬)。また、ダービー馬ラッキールーラの母・トースト、天皇賞馬ヒカルタカイの母・ホマレタカイを送り出し、母の父としても非凡な実績を残している。

 今回掲載のレースは、1962年(昭和37年)の皐月賞。ここまで9勝を挙げていたカネツセーキが断然の1番人気に推されたが、ハクリヨウの代表産駒・ヤマノオーが外から鮮やかに差し切って勝っている。枠単5−4は同枠に2番人気のシモフサホマレがいたため710円と平穏だったものの、単勝は13番人気で9210円の高配当。6枠連単、4枠が緑、6枠が水色。オールドファンには懐かしい紙面である。

〔田所 直喜〕

☆1954年度代表馬☆
ハクリヨウ 1950.5.6生 牡・鹿毛
プリメロ
1931 鹿毛
Blandford Swynford
Blanche
Athasi Farasi
Athgreany
第四
バツカナムビユーチー
1940 黒鹿毛
ダイオライト Diophon
Needle Rock
バツカナムビユーチー シアンモア
第三ビユーチフルドリーマー
 

馬主………西 博
生産牧場…浦河・ヤシマ牧場
調教師……東京・尾形 藤吉

通算成績 25戦16勝[16.4.5.0]
主な勝ち鞍 菊花賞(1953年)
天皇賞・春(1954年)


1962年04月22日
第22回皐月賞 中山 芝2000m・良
[5]13ヤマノオー牡457古山良司2.04.8
[4]カネツセーキ牡457伊藤竹男1.1/4
[3]イスタンブール牡457高松三太
 ※1962年当時は6枠連単